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『ファウスト』はゲーテの最高傑作! [文学作品]

 ゲーテが20歳から構想して24歳の時に執筆を開始し、一旦、第一部を完成してから晩年(82歳)に経って第二部を完成させ、翌83歳で最終調整を行うと安らかに眠ったのである。つまり、(ゲーテの)生涯に亘って成長を続ける作品でもあるのだ。まだ20歳なのでこの作品の奥深さを語れないが、過去・現在・未来という時空間、人間の無償の愛、飽くなき探求心、生きる歓びと苦しみ等の、ハッキリと言葉に表すには難しい内容となっている。特に第二部。ほとんどがキリスト教(旧約聖書・新約聖書の引用)やギリシャ神話など、多くの哲学や宗教が濃いストーリーになっているから日本人にはあまり馴染みがない所がある。注釈を見ないと理解しがたいだろう。
 ファウストは15~16世紀に存在していた錬金術師で、彼の伝説をもとに色々と『ファウスト』は刊行されてきた。ゲーテはその伝説を見事に表現しきっている。



 世の中の真理を追う者は、果てには満足を満たす事が出来ない結果となる。それはあまりにも大宇宙が広大無辺であり、人知では計り知れない無限の知識の宝庫があるからだ。 

 と、一言の感想で括り締めます。
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『発心集』の冒頭で思ったこと [文学作品]

 鴨長明(『方丈記』で有名)が著した『発心集』の冒頭に、
 “仏の教へ給へることあり。「心の師とは成るとも、心を師とする事なかれ」と。”(または、「願って心の師と作るとも心を師とせざれ」)
 とある。これは釈尊(仏様)が涅槃に先立って説かれたものである。(涅槃経より)

 心の奥深くに仏性という、一切衆生が仏様になれる種があるから修行を積むと必ず成仏すると釈尊が仰せられるが、しかし、凡夫の心は所詮迷いの心なので師匠としてはいけないと、厳しく誡められている。要は人は慢心を起こしやすく、煩悩に流されやすい。その心を師匠とすると無慚無愧(自分の恥を知らない、他人も恥を感じなくなること)になって、結局は悪道に落ちてしまう因となる。その現状が今の創価学会である。池田大作は会員の前に平気で汚い言葉を吐き、会員もまたそれを聞いて恥だとは全く思わない。現に今のお笑い芸人を見ても下ネタばっかり。


 何も創価学会に限った言葉では無い。

 禅は心の仏を観じて悟りを得ようとする宗教だが、明らかに釈尊の戒めを破っている。幾ら座禅を組んでも凡夫の心は凡夫の心のまま。しかも末法なら尚更である。

 今を生きていくためには何が大事か。先人の悔いを繰り返さないように見つめ直そう。
 
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車輪の下 [文学作品]


 いま『車輪の下』という、ヘルマン・ヘッセの自伝的小説を読んでいます。

 岩波文庫の表紙に
 「誇りと喜びにあふれて首都の神学校に入学したハンスがそこで見出したものは、詰め込み主義と規則ずくめの寄宿舎生活であり、多感で反抗的な友人の放校であった。疲れ果てて父の家に戻った彼は機械工として再び人生を始めようとするが・・・・・」
 とある。

 「車輪」=社会。

 大人たちの無理解、利己主義の下で、その圧力にあえぐ少年に心を打たれます。


 読むきっかけは、去年、「ドイツ語圏文学文化と日本」という講義を取っていて、その中からゲーテとかリルケとか読むようになり、そしてこの作品にも読んでみたいと思ったから。


 すごく繊細な文章でありながら、みずみずしく、抒情詩的な流れ、何も飾らない純粋さがとても素晴らしい。

 
 確かに周りから期待をされては、それなりのプレッシャーが掛かるし期待に応えたいと思う。しかしその分、いやそれ以上に不安なのが失望された時だ。(俺も経験済み・・・)
 
 最期にハンスは人生を振り返って何を思ったのだろうか?
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ついに読み終えてしまった・・・ (閲覧注意) [文学作品]

本当であって欲しくない事件です・・・・。


『The Girl Next Door』をつい先ほど、読み終えました。
(avexのグループではありませんよ)
もう本当に最悪な気分を与える作品であると共に、
作者が示した、現代における人の心の闇をストレートに表現したことに驚いている。


時代の舞台は50年代のアメリカの閑静な田舎。
この時代を設定しているのは、かの有名なスティーブン・キングの『The Stand By Me』であるが、
こちらは、その作品の裏バージョンである。


わたし=ディビットという形で話が続き、最初は清々しい日常を描いている。
ある日にザリガニを釣りに来た時に声をかけられたのが、14才の美少女・メグであって、
なんとも笑顔が素晴らしい少女である。
しかも、隣の家に越して来たというのだ。
彼女の両親は交通事故で失い、
両足を骨折した妹のスーザンと共に親戚にあずかることになっていた。
アメリカでは、両親を交通事故で亡くした孤児が描かれることが多い。
思い起こせば、ディズニーでもこの事を踏み込んだアニメーションがある。
車を擬人化し、いつも事故ばかりを起こす人間たちに裁判を起こすと言う話だ。
(もちろん、この中で人は死にませんが・・・)

親戚のチャンドラー家は近所でもあって仲が良く、特に(美貌?の主)ルース・チャンドラーは
子どもたちに愛想良く面倒を見てくれる。
いっけん、何処でも居そうな人格の持ち主である。
タバコや酒を子どもがしていても怒らないし、逆にお菓子をおごってくれる。
だが、やはり生身の人間であるため、
夫から散々な目に遭い、心身ともに疲れきっている。
ただでさえ3人の息子を育てるのに苦労なのに、2人の娘を養わなければならなくなった。

最初はメグに暴言を浴びせるだけであったが、段々エスカレートしていく。
少年たちや警察はそのことをあまり重要視しなかった。
子は親の言うことを聞く。
それが、当り前だから。
昨今でも親による虐待の事件が絶えない。
この事を鑑みても、親の悩みを聞くシステムが浸透していないや
家族と社会との孤立を考えなければならないのではないか。
ある一節も引っ掛かる。

地下室でメグがどのような虐待を受けていたかを、ある少年が親にばらしたという。
その家は敬虔なカトリックであり、この事をさほど心配しなかった。
その一節。

 「モリノ家ががちがちのカトリックで助かったよ。やつのママは、メグは罰せられるだけのことをしたんだろうっていったそうだよ。メグはみだらなことをするかどうかしたんだろうって。両親には罰する権利があるし、いまじゃルースはメグにとって母親なんだって」

前も映画で批評したけど、キリストを信じる者は、ハッキリ言って救われない。
ありもしない神を信じることは多重人格を起こし、苦痛を救いと錯覚する。
あの時、既にキリストは全ての人の罪を背負って死んだはずなのに、
今でもなお、人は罪をかぶって生きている。
これでは何のために信仰しているのか分からない。

それは置いておいて。
メグが警察に相談したところから、虐待は拷問へと変わる。
彼らはメグを人として見ることは無かった。
ただの物扱い、いや、自分がイラついているから、怒りの矛先をモノにぶつける対象であった。
妹のスーザンを人質にし、逆らえば妹を平気で痛めつける連中である。
だから、為すがまま、メグは耐えらなければならなかった。誰かが助けを来るまで・・・。
ルースは徐々に人格が変わり、堕ちていく。
妙な病気にかかり、できものが皮膚に出てくる。
悪業の結果である。
それでもなお、ルースはメグにひどい仕打ちをする。
まるで過去の自分を清算するかのように・・・。
少年たちは彼女をサンドバックにしたり、コーラの瓶でOOを挿入したり、
バーナーでもってOOOOOを焼く。
火傷からドロドロとした液体が流れ、地下室は異臭と絶叫と嘲笑が漂う。
これぞ阿鼻地獄である。

この異様な宴を終えた彼らは階段を上り、飯を食い、TVを見て笑うのである。
もはや人では無い。
血も涙も無い、ムシケラ以下である。
デイビットが救いの手を差し伸ばした時には、もう何もかもが手遅れだった。
デイビットも捕まってしまい、最後の抵抗を試みる。
ようやく警察が来たのだが、メグはもう息を引き取っていた。
デイビットは思わず(それとも意図的に)、階段で後ろに上るルースを突き落とした。
彼女の死は無様であった。
階段から落ち、冷たいコンクリートの床に頭を叩かれ、その衝撃か、クソを漏らした。
彼女の息子たちはデイビットを恨む。警察はデイビットを内心、讃える。

少年全員が未成年であり、表向きは無罪となった。(新聞にも、さほど載らない)
少年院で2年過ごす者がいれば、18歳まで閉じ込められる者もいる。
しかし、無事に出所してしまえば前科が消える仕組みとなっている。(←現在も同じか分からないが)

もっと、あの警察が早く動いていれば、このような悲劇は起きなかった。

また、デイビットが勇気を出して行動に出れば食いとめられた。

しかし、子どもはあまりにも非力だ。
子どもは親が全てだった。
だが、打ち明けられないこともある。
このことに関しては、性の問題である。
(深く踏み込む気がしませんので省略)


読み終えて、ジャック・ケッチャムは恐ろしくも人の心の闇を突いた作家だと感じた。
キングが認めるのも良く分かる。
この作品は断じて読まないことを勧める。(特に純粋な心の持ち主には・・・)
この記事を読んだだけで良いと思う。
この記事を読み、人とはどういう事か、犯罪とはどういう事か理解していただければ幸いです。
(↑声を大きく出して言えるものではありませんが・・・・・)


過去の記事。
http://ryugenji-novel11olo1.blog.so-net.ne.jp/2010-02-14-1

また、本作品のモデルである、実際に起きた事件「インディアナ少女虐待事件」の犯人は、
裁判で終身刑を受けたが、1985年に仮釈放されたという。
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『伊勢物語』の在原業平 [文学作品]

      SANY0747.JPG

二回目の「絵合」において『伊勢物語』と『正三位』が競い合い、『伊勢物語』に軍配が上がった。


本文:「伊勢の海の深き心をたどらずて
       ふりにし跡と波や消つべき
世の常のあだことのひきつろくひ飾れるに圧(お)されて、業平が名をや朽(くだ)すべき


訳:「『伊勢物語』の深い意味を考えようとせず、
     いたずらに古風な作だと、貶(けな)してよいものでしょうか。
ありふれた色恋沙汰の、一見おもしろく書いてあるのに気圧(けお)されて、業平の名声を無にしてしまってよいのでしょうか。

これは藤壺(中宮)の言葉とみて良い。
『正三位』とは現在失われてハッキリとは分からないが、
宮中の物語でヒロインが天皇と結ばれてハッピーエンドを迎えるものであったらしい。

つまり、当時の女性は天皇の妃になることが幸せだと考えていた。

だから弘徽殿女御らはこれを推したのである。
しかし、梅壺側は『伊勢物語』を推して藤壺はこれを選んだ。

それは何故であろうか?

それは在原業平にある。
             在原業平.jpg
在原業平は父が平城天皇の第一皇子阿保親王、母は伊都内親王の皇女である。
そして父方をたどれば、平城天皇の孫・平安時代最初の天皇桓武天皇の曾孫となる。
母方をたどれば桓武天皇の孫にあたる。
つまり、天皇家として嫡子ある血筋なのだ。(ようは純血)

これを汚すわけにはいかないと藤壺は言っているわけです。


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転載 [文学作品]

ニコタより転載。



末摘花

『源氏物語』「末摘花」巻での彼女は滑稽な話で進んでいたが、

「蓬生」巻に至ってはかなり成長している。


もともと常陸宮であったので皇族で、末摘花はその娘であった。

しかし、父・常陸宮が亡くなってからは後見がいないために生活が貧窮してしまう。

乳母子の大輔の命婦が「零落した悲劇の姫君」という噂を源氏に話し、光源氏とライバルの頭中将が争うことになる。(笑

やはり、どの時代にも国と関係なく「没落の姫君」というものは、ある種の幻想を抱かせる。
(物語の典型的パターンであること)

そうこうして光源氏は何とか逢瀬することができたが、末摘花は恥ずかしがり屋のこともあって対応はおぼつかない。

そして、ある雪の日の朝に源氏は末摘花を素顔を見て驚愕する。

「髪は素晴らしいが、座高が高く、やせ細っていて顔は青白い、中でも鼻が大きく垂れ下がってゾウのよう、その先は赤くなっているのが酷い有様」

とのように、かなり強烈で個性的な女性である。

かなりおとなしくて、古風な性格で時に頑固、世間知らずの姫君であった。

これで一応、光源氏から援助を受けて生活は楽になるのだが、

しかし源氏が須磨へ退去してしまったことで、再び困窮な生活を強いられる。


そこで「蓬生」巻は危機的状況に陥る。

以前よりも生活が苦しくなり、女房たちは他の屋敷へ行ってしまい、残されたのは古くからいる女房だけ。

庭は生い茂て日の光が閉ざされ、モノノケが出そうなほど恐ろしく暗い。

家の中もボロボロで、まさしくあばら家、いや、それを超えるほどひどいものだった。

当時、成金で物珍しいものを買収しようとする輩がいて、

常陸宮の屋敷を買い取ろうとする富裕者がいたので女房が推し進めるが、

末摘花は断固として拒否した。

それは、亡き両親の面影が残る家や品々を簡単に手放すことができるわけが無く、

顔合わせができない思いもあった。

しかし、このままでは餓死してしまう。

かと言って、貴族の誇りを捨てるわけにはいかない。

当時の平安時代も、没落貴族が成金に呑みこまれる事態が起きていた。

紫式部は、成金の欲望と、末摘花の純粋かつ貴族の誇りを対照的に描いている。

そこに受領の北の方となっている叔母が、末摘花を自分の娘の女房にしようと企む。

叔母は、末摘花の両親から低い受領の妻に成り下がったと見下されていたので、その復讐をしようとする。

しかし頑なに末摘花に拒まれたので一旦は引き上げるが、

(このころ、源氏は京に戻っているが、末摘花のことは忘れてしまっている)

夫が太宰大弐となったので、再度、末摘花を連れて行こうとする。

それでも頑なに拒むので、叔母は末摘花の(信頼の厚い)侍従を連れて行かれてしまうのだった。

それからある日のこと、源氏はたまたまその常陸宮の屋敷の前を通りかかり、

末摘花のことを思い出して再会する。

源氏は、屋敷が荒れ果て、生活が苦しいにもかかわらず、

成金から屋敷などを売り払うことなく自分(源氏)を待ち続けた末摘花の“貴族の本当の精神”を肌身で感じて感激した。


ここに、初めて末摘花の美しさが現れてきた。

自らの生活が苦しくても、貴族として誇りを失うことが無く、それが源氏の心を震わせ幸福をつかんだ。

こういうプライドの高い人って結構多いですよね。

また、成金の人はたいてい有名人が所収していたモノを欲しがる。

紫式部の眼光の鋭さが現代にも通用することに、ただただ敬服する次第である。

もちろん、源氏と末摘花が再会した手紙が叔母に届いて、叔母は悔しがります。(笑

やはり、『源氏物語』の登場人物は“何かしらの美しさ”を持っている。

「蓬生」は、人は見かけじゃないってことを改めて感じさせる内容です。



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