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家ごと流されても護られる [体験談]

ゼミの発表が終わったと思ったのに、今度は原稿が待っていました…。
この一週間で二ヵ月を終わらせたいと思うんだけど…無理かなァ。

では、お約束通り、東日本大震災で生還された体験談のお話を。




妙応院支部 S.Nさんの体験発表
(岩手布教区広布推進会より)

皆さんこんにちは。
私は、数年前から更年期障害で体調を崩しておりました。三月十一日午後二時四十六分に突然大きな地震が起き、その後何やら遠くからゴォーゴォーという声が聞こえてまいりました。私は、更年期障害で耳鳴りがしたものだと呑気に構えて、茶碗など洗い物をしておりました。

実はそのゴォーゴォーという音は、高さ三十メートル以上、速さが時速百キロ超の勢いで押し迫ってきた津波の音だったのです。私は、洗い物をしながら耳鳴りではないことに気がつきました。窓の外を見ようと思ったその時、急に地面がドドドォーと揺れたので、とっさに仏壇の扉を閉め、揺れが収まるまで待とうと思いました。

その途端、二階の窓を突き破って私の横をザァーとものすごい勢いで津波が通っていたのです。もう私はだめかと思い、御本尊様を仏壇ごと抱きかかえ、御題目を必死に唱えておりました。御題目を唱えながら、今年「実践行動の年」に当たって、新年より一週間に二人ずつ一カ月で十人下種(※日蓮正宗の教えを周囲の人に話すこと)し、三月十一日の津波が来る前日も下種活動をさせていただいたことを思い出し、その活動をさせていただいたことのご報告と御礼を御本尊様に申し上げました。

その報告を終えた瞬間、私に津波が襲ってきました。必死に「南無妙法蓮華経」と叫んでいたことを覚えておりますが、その後どのようになったか全く判りません。ハッと気がついたとき、自分が一命を取り留め、生きているということが判りました。

そして玄関に濡れていない長靴があったので、その長靴を履きました。なぜかすぐそばに山があったので、御本尊様を抱いたまま何も考えずに山を歩いて避難していくことができました。途中、山の中のプレハブ小屋で作業員らしき人が暖を取っていたので、一緒にそこでしばらく暖まりました。そこにいた作業員の方は、後で御主管・稲用正福御尊師からお聞きしたのですが、つい先日お寺の物置を修理に来た大工さんだったそうです。そして私は、避難所の方に向かって歩いていきました。

その後落ち着いてからいろいろなことが判ってきました。住まいの一階部分の姑夫婦の住居は津波で全壊しました。私の住んでいた二階部分は、津波によってかなり離れた所まで流され、山の中腹から出ている大木に、二階部分が丸ごと乗っかっているではありませんか。
zisin.jpg

その光景は、まるで御書の中に出てくる一眼の亀の浮木に値(あ)うかのようで(※深海に棲む亀が千年に一度しか海上に浮かぶことができず、眼が一つで手足が無い。おなかは鉄が焼けるように熱く、背中は雪山のように冷たい苦しみから逃れるため、海に浮かぶ自分にピッタリの浮木が無ければならない。が、身体が不自由で思うどおりに動けず、また型に合う浮木が有るかさえも希に等しい。人間に生まれ変わる難しさ、正しい仏法に巡り合う難しさを譬えている)、周辺の家は全壊して跡形もない状態の中、本当に御本尊様から護って戴いたとしか言いようがありませんでした。

そして家の中は、御書や折伏資料が床に落ちてはいたものの、ほとんど濡れておらず使える状態でした。家の中を見たとき、私は「今こそ折伏に立ち上がらなければ」と身震いを感じ、強い決意で胸がいっぱいになりました。

四月度の広布唱題会の砌(みぎり)、御法主日如上人猊下は、

 「今、大震災の復興へ向けて、各機関の方々、ボランティアの方々、国内のみならず、国外からも支援の手が差し伸べられていることは大いに評価すべきであり、賞賛に値する行為である事は間違いありません。
 しかしまた、さらに根本のところから、仏法の視点に立って、今、我々がなすべきことは何かといえば、私ども一人ひとりが『立正安国論』の御理想実現へ向けて、一人でも多くの人に、また一日も早く、一人ひとりの心田(しんでん)に妙法の仏種の植え、折伏を行じていくことが、今、なすべき最も大切なことであります」

と御指南あそばされ、『立正安国論』に示された大聖人様の御正意を体して、仏国土実現をめざして一切衆生救済の慈悲行たる折伏を行じていくのが、私たち本宗僧俗の大事な使命であると御教示されました。私たちは、ともすれば今回の震災という大きな魔に負けて愚痴が多く出てしまいかねません。でも、愚痴は一切の功徳善根を消します。真剣な御題目は一切を迷い、愚痴を打ち払い、罪障消滅の道を切り開いてくださいます。そして折伏をすることで罪障消滅できるものと私は思っております。

まだ祈りが弱く折伏がなかなか成就できませんが、御主管様の御指導のもと、必ずや折伏を成就することを、ここ得道寺の御宝前で固く決意し、私の震災体験発表とさせていただきます。

(※は私の判断で注にした)


思えば、今年は法然の800遠忌である(今年の一月二十五日)。
『立正安国論』では法然が開いた念仏は無間地獄に堕ちる原因であると説き、
かつ災害や飢饉、疫病等の根源的な元凶と喝破あそばされた。
要は現実そのものが地獄へと成り替わる。
それは震災直後から見ると、尚更そう感じせざるを得ない。
なぜ念仏が間違っているかは、これから研究する『立正安国論』で示したいと思う。


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子・孫に伝えたい護法の功徳 〝津波から救われた〟 [体験談]

法明寺支部 T.Hさん
(静岡北地方部総会より)


 法明寺支部のT.Hと申します。このたびの東日本大震災に当たり、私の体験発表をさせていただきます。
 私は姉と兄、弟の四人兄弟です。皆それぞれの所帯を持って、宮城県気仙沼に住んでいます。私は縁あって富士宮市の方と結婚して富士宮に住んで四十年になります。三人の子どもも結婚して、皆御本尊様を持(たも)ち、幸せな家庭を築いています。兄は永らく外国航路の船長をしていましたが、今は退職して気仙沼で悠々自適の生活をしています。

 しかし、このたびの三月十一日の大地震と津波には本当に驚かされました。本日の話は、兄と弟のことです。
 弟は船を持っていますが、ちょうど漁を終えて、入港するときに大地震が発生したそうです。とっさに「このままでは他の船や岸壁にぶつかって壊れてしまう。不安な面もあるけれど、船を守るためには沖に出るしかない」と判断したとのことです。

 以下は弟の語ったことです。


 「そうこうしている間にも、津波の前兆が感じられ、運を天に任せて沖に出ることになりました。思った通り天にも迫る勢いで津波が迫ってきて、もうだめかと思われるほど船は激しく揺さぶられ、何度も何度も波を被りました。
 
 ようやく沖に出ることができると、沖のほうは大きなうねりは続きましたが、どうにか船は安定しました。乗組員は皆、身心ともに疲れて、助かったという安心感で、しばらくは放心状態でした。一休みしてから、港へ帰ろうということになりました。

 港へ近づいてみると、津波で防波堤は壊れていました。さらに、沈んだ船や壊れたカキの養殖の筏(いかだ)などの残骸が重なっていて、とても入港できるような状態ではなかったので、石巻へ向かいました。石巻もたいへんな状態でしたが、自宅の家屋や家族が心配で早く帰りたい一心で、多くの残骸を避けながら、何とか港の端の方に船を着けて上陸しました。

 家へ帰るにも、汽車も走っていなければ車もないので、歩いて帰ることにしました。地崩れや地割れがひどく、地獄のような光景の中を歩き通しに歩いた空腹と疲れで、どこをどう通ったかも覚えていない状態でした。

 翌日、トラックが通りかかったので、大きく手を振って止め、乗せてもらうことにしました。乗せてもらえたときは『天の助け』だと思い、運転手を見ると何と隣の家の人でした。お陰で無事に家に帰りつくことができました」ということでした。


 そして兄の方は地震が来た時は、これは津波が来るぞと直感したそうです。ただ御本尊様を御護りすることだけを考えてお仏壇からむしり取るようにして御本尊様をつかみ、波にさらわれないよう自分の体にしばりつけて逃げたそうです。
 周りの家は流されてしまいましたが、兄の家は流されずに助かりました。二、三日後、避難所から戻って家を見ると、畳の上に湯呑が一つ落ちているだけだったそうです。電話の向こうの兄は、「御本尊様の御力って、本当にすごいぞ」と、御本尊様の不思議な御力に対する驚きと感謝で、ただただ興奮して話し続けるだけでした。

 私はそれを聞いていて、逃げるだけでもたいへんな中を、御本尊様をお護りした功徳で、家族も家も守られたのだと確信しました。
 テレビで皆さんもご覧になったように、大きな被害が出ている中で、このように無事で済んだことは不思議としか言いようがありません。私たち兄弟一同、子どもの時から日蓮正宗の信心をすることができたからこそ、この大震災の中でも御本尊様に守っていただけるのだと思いました。
 これからも、家族・兄弟・親戚一同が、このたびの教訓を胸に、まじめに信心に励んでまいります。

 さて、五月十五日は支部総登山(それぞれの菩提寺に所属する人々が総本山・大石寺へ参詣すること)です。家庭を持っている私の三人の子とその連れ合い、二人の孫も一緒です。まもなく三人目の孫が誕生しますので、十一月六日の支部総登山には十人で三代揃って登山いたします。そして子ども・孫にしっかりと法統相続し、信心の大切さを教えてまいります。私が子どもに残してあげる財産も名誉もありませんが、子ども・孫の一人ひとりが、それぞれの信心によって、御本尊様より身の福徳を戴けるように導くことが、私の使命と思って、がんばってまいります。



東日本大震災の体験発表を載せたところ、好評をいただきました。
それぞれの体験を読ませていただいた時は、
本当に言葉では表せないほどの感動をしました。
被害が少ない東京都に住む私たちが今できることは何かと考えたとき、
政治の迷走は、また右翼の活動を見ると呆れ返ることばかり。

いま、目の前にあることを目的とするのではなく、
今から未来永劫にいたるまで、絶対に幸福を壊すこともできない実践行動が必要ではないか。

『立正安国論』に曰く、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし」

(あなたは、一刻も早く邪宗信仰の寸心を改めて、すみやかに法華実経の一善に帰依せよ。そうすれば、この世の中は皆、仏国となり、仏国は衰微することがないのである。また、十方はことごとく宝土となり、宝土は破壊されることがないのである。かくして、国に衰微なく、国土が破壊されることもなくなるならば、身はこれ安全となり、心はこれ安定するであろう。この言葉を信じ崇めるべきなのである)

明治維新・廃仏棄釈の故に仏教観は崩れ、民衆の、いわゆる在家が宗教を興して多くの宗派が分裂していった。つまり、自分の好きなように解釈し、経文に依らないで好き嫌いをしている。その結果、いい加減な教義が出て来たり、自己中心の考えに囚われたり、挙句の果てには周囲を巻き込んで凶悪犯罪に走らせる。
その姿を見て宗教に恐怖を覚え、無宗教者になり、道徳的には理解しても、不幸の根本の原因を解明することができなくなる。まことに負のスパイラルから抜けられないのが、いま現在の状況ではないだろうか。

そして、現在の不幸の原因を造っている創価学会・公明党を糺すのが、最も急務のことである。
あの政治の迷走の裏には、創価学会を相手に大学教授が裁判を起こし、現在進行中である。
国民を欺くための姦計であろう。
さらに、選挙の結果で自公勢力が再び活気を取り戻しつつある。
どんな形で、その天災・人災が降りかかるかは判らない。

今こそ、国民は周囲に惑わされないで、自らの意思で主体的に動く時なのかもしれない。
平成維新とでも言うべきであろうか。
いや、世界を革新するためにも、日本国民一人ひとりが思想・宗教観をリードすべきであろう。
世界を変えるために、まずは日本から変えていこうではないか!!

まだまだ若い私は、力の限り、周囲の方に熱く語っていくつもりだ。
その若さでもって、私が住む環境を変えていきたい。


タグ:体験発表
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想像絶する光景 目の当たりに [体験談]

 宣行寺支部 Y.Tさん
 (埼玉地方部総会より)


 このたびの東日本大震災により、実家のある宮城県にて私が目の当たりにした現状を報告させていただきます。
 昨年は御住職・村上節道御尊師御指導のもと、宣行寺支部折伏目標二百八十人を上回って、三百十二人を達成させていただくことができました。その流れを引き継いで今年に入り、一月は三十七人、二月は三十三人、三月には三十三人と折伏が進んでいます。
 私のチームでは、チーム長はじめ他の班員さんと共に折伏・育成に励む中、一月には鳥海さん、二月には私自身が以前から御祈念していた加藤さんを折伏でき、御授戒が叶いました。
 しかし、動きの大半はチーム長と鳥海さんと私のほぼ三人によるものでした。御住職様より「動きが小さすぎる。もっと大きく全体を巻き込むためには、どんどん育成が必要です」と、常に御指導をいただいていました。
 今年に入り「チームの底上げしかない!」とチーム長自ら唱題を二倍に増やし、チーム全体の育成にどんどん携わっていきました。その結果、山中さんのご主人を、福田さんがお孫さんを折伏されました。

  震源地は宮城県沖!両親は!?

 あの三月十一日、大震災の日も私はチーム長と育成に動いていて、千住新橋を通過中に橋の両側に並ぶ街灯が大きく揺れるのを見て、「強風にしてはずいぶん揺れているね」と呟(つぶや)いた瞬間、さらに強烈な揺れが襲ってきました。車が飛び跳ね、私の頭は車の天井に数回ぶつかりました。
 阪神大震災の真ッ二つに割れた橋の映像が頭をよぎり、ハンドルを取られ体中を打ち付けながらも、橋のたもとにたどり着きました。急いでつけた車中のテレビ画面に「震源地宮城県沖マグニチュード八.八」を見た時、気絶しそうになりました。

 私は海岸から六キロ離れた宮城県名取市出身で、実家には両親が住んでいます。帰郷の際には必ず、いつ発生してもおかしくない宮城県沖地震に備えて備蓄品と避難所を再確認していました。大震災前日も強い地震が立て続けに起きていたため、くれぐれも注意するよう電話で話したばかりでした。実家の辺りの震度は六強でした。

 前代未聞の大きさに震えが止まりませんでした。通信は完全に絶たれ、極度の不安の中、実家に帰る交通手段のことばかり頭を巡らせていました。
 しばらくすると、今度は津波警報が出ていました。自宅に戻りテレビをつけると、全局で名取市上空からの映像を映し出していました。胸騒ぎをしながらしばらく見ていると、津波が名取川と合流してものすごい勢いで内陸に向かっています。見慣れた田園風景が濁流に飲み込まれていくシーンを見ながら、「流れの延長線上には実家があるのに」と愕然(がくぜん)したのを今でも覚えています。
 自宅付近まで入り込んだ津波は両親の生活圏内でもあったので、最悪のケースをよぎりました。

 その時、以前ある先輩から「多美ちゃんの心の中には仏様がいないね。肝心な時に仏様がいない。万事仏様にお任せすればいいのよ」と、私自身の宿業で行き詰まった時にいただいた励ましを思い出され、この時も当てはまるような気がしました。
 両親の所属する広安寺支部は、昨年に続き本年も既に折伏目標を達成し御法主上人猊下への御目通りを果した直後でした。唱題をする中で、いくら自分の両親だからといって仏様のお使いをさせていただいている者に最悪のケースを当てはめるとは言語道断と、御本尊様よりお叱りを受けたような気がしました。しかも御報恩御講を明日に控えているのに動員・育成を完全に忘れ、私事にとらわれたことを反省しました。そして、例え両親の安否が判らなくても御講に集中すると決めました。
 嬉しいことにその日の夜、両親の無事を確認できました。父より「御本尊様も傷一つない。お寺の書類等も無事だった」との連絡に、逆に私の方が励まされた形となりました。
 三月の御報恩御講には大勢の参詣動員もでき、その夜、講中の方々のご協力と支えにより、実家に向かいました。道中は不思議と渋滞もなく、地割れで陥没(かんぼつ)した道路も修復されていて八時間で実家に着け、仏様の功徳を感じずにはいれませんでした。

  被災地の過酷さ

 被災地はテレビで見る映像より過酷なものでした。賑(にぎ)わっていた町並みもすべてシャッターが降り、自衛隊の車やヘリコプターが飛び交(か)い、人々は食料と水を求めてリュックを背負いながら歩いていました。開いている店は一軒もなく、ガソリンスタンドもすべて閉鎖されていました。ときどき降る雪が寒さと現実の厳しさをより増していました。

 幸いにも実家の建物は無事で、被災地とは思えないほど不思議と衣食住に守られていました。しかし、一歩町に出ると、日を追って増えていく遺体の数。私の知人、同級生を含め、数名の方が津波の犠牲となりました。実家の近くが遺体安置所だったため、見るも無残な光景を目の当たりにすることになりました。
 次々に入ってくる自衛隊のトラックから、まるで流れ作業のように運び出される棺(ひつぎ)は、遺体安置所となったボーリング場の施設に運ばれていきました。その数は名取市だけで五百体を超えると言われていました。

 安置所の外はまさに地獄絵でした。地面にしゃがみ込んで叫び続ける母親、隣には小さな棺を抱えたご主人らしき人が寄り添っていました。泣き腫(は)らした顔で気丈に棺を運ぶ若者。三陸から行方不明者を探しに南下してきた家族。さらに南の安置所に向かっていく光景。軽トラックに棺を運んだり、普通乗用車のシートを倒して何とか棺を入れようとしている家族。その光景を容赦なく撮影している海外の報道機関。

  「牛馬巷(ちまた)に斃(たお)れ、骸骨(がいこつ)路(みち)に充(み)てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの族(やから)敢へて一人も無し」

 思わず『立正安国論』の一節を呟いていました。この惨劇の主人公たちと御題目を唱えたい衝動に駆られました。
 
  「世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相(あい)去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」

 この震災で私の知人であった多くの創価学会員、念仏宗の方が犠牲になりました。ある方は地震後、津波警報を聞き両親を車に乗せ、逃げる途中で家族全員濁流に巻き込まれ、数日後に全員の遺体が見つかったそうです。またある方は、地震後すぐに車で逃げたのですが渋滞に遭い、そのまま波にさらわれて、二週間後に百キロ先で遺体が見つかったそうです。彼女は日蓮正宗のお寺に来寺したものの、御授戒を受けることができず入信できませんでした。また、ある方は自動車教習所の教官をしており、地震直後に五台のバスで生徒全員を乗せて逃げましたが、結局全員が亡くなったそうです。

 謗法(※誹謗正法のこと)がなぜだめなのか、今までは知識の中でただ漠然と捉えているだけでした。しかし、自宅に御本尊様を御安置できているか否かで家の被害の明暗が分かれ、また、御授戒を受けるか否かで生死の明暗がはっきりした事実を、私は目の当たりにしました。流されてもおかしくない場所の家が残っていて、安全と思われる家が飲み込まれていたからです。
 ある信徒さん曰(いわ)く、「遠くから黄色いもやが見えた。それが津波と判り、間に合わないと思ったその瞬間、津波の速度が遅くなった」そうです。その結果、無事に逃げ切れたという話を聞きました。

  使命感じ帰路へ

 さらに災害の追い打ちをかけるように深刻な物資不足、特にガソリンには悩まされました。震災から一週間以上経過してもガソリン入荷の見通しが一切立たず、町の大きなスタンドでようやく二十リットル制限の、一日三百枚の整理券を求めて前日から徹夜して並ぶのです。
 実家の状態も一段落つきましたが、肝心のガソリンがなければ帰ることもできないと途方に暮れながら国道を走っていた時、ちょうどタンクローリーが出てきたスタンドを見つけ、まっしぐらに入っていきました。既に数台の車も待機している状態で、整理券をもらってホッとしたものの、この二十リットルを実家の車に補充するか悩みました。
 すると父から電話があり、ガソリンを満タンにできたと言うのです。私と同じ状況が父にも起きていました。「これは間違いなく仏様のお計らいだ、信行の上にやるべきことが待っているから帰りなさいと言われている」という気がしたので、その日の夜に帰路に着きました。

 後日、さっそく鳥海さんが有縁の方を連れて来られ、婦人部長さんを中心にチーム長と伊藤さんと皆で折伏に関わることができ、喜びの御授戒となりました。また、その後も二人折伏することができ、先月の折伏成果は七名となりました。
 チームみんなで異体同心の折伏・育成に取り組めた三月、この勢いをもって、これからも信行に励むことを決意して、私の発表とさせていただきます。



以上、東日本大震災の体験発表でしたが、思うに「法華経」とは「実践」であるとつくづく思う。
世の学者は「法華経」を「内容がまったく無い御経だ」と決めつけているが、
しかし、末法とは「(正法・像法の)戒律が失われた世の中」である。
いくら御経で修行の方法(写経や座禅など)が書かれ実践しても、
今の時代ではまったく意味をなさないのである。

「法華経」を拝すると、半ばに入っていよいよ究極の「真理」が説き明かされ、
さらに「法華経」を弘通・教化する者は大いなる功徳を得るとある。
つまり「法華経」を信じ修行する者は、必ず世の人々に仏の教えを説かなければ、
「修行」とは言えないのである。
「法華経」を拝するとそのほとんどが、「修行」という実践の内容とその功徳の絶大さ、
その由来を示している。

決して内容が無いわけではない、いや、それどころか、
あまりにも膨大すぎて一括りでつかむことが、末法に生きる我々には不可能なのだ。
なぜならば、「法華経」は「諸経の中に於(おい)て最も為(こ)れ甚深(じんじん)なり」
「諸経の中の王なり」「最も難信難解(なんしんなんげ)」
「而(しか)も此の経の中に於て法華最も第一なり」だからである。
いくら頭で理解しようとしても、それは不可能に近い。

「毒矢のたとえ」のように、頭でっかちに考えず、まずは「信」を取らなければ
毒に侵され苦しみ続けることになってしまう。
「今があればそれで良い」という安易な思考は大震災をもって崩された。
今こそ、私たちは「常識」を考え直し、惰性に流されないで安全な未来を築くべきではないか。
時間は待ってくれない。

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大震災で学んだこと 何があっても乗り越える! [体験談]

今回もまたすばらしい体験談がありました。
たぶん小学生の女の子からのものですが、
しかし純粋な信心で折伏を行っていく姿に頭が下がります。



 こんにちは。長崎県聞法寺支部のI.Eです。昨年の十一月から四カ月間、私たち家族は広安寺様の預かり信徒でした。
 私には、一年生の時から決めていることがあります。それは、お友達が私の家に遊びに来た時は、ご本尊様にごあいさつをしてもらうことです。ただお題目三唱をしてもらうだけなのに、思った以上にむずかしいです。勇気がなくてさそえなかったり、口に出さないで三唱する人や、まちがって南無あみだぶつと唱える人もいるからです。


 フルートの先生が入信できた!

 宮城県に引っ越して来る前は、山形に住んでいました。山形ではフルートを習っていて、週に一回、先生が私の家にレッスンに来てくれました。先生にも、レッスンの最初と帰る時に三唱をしてもらいました。次のレッスンが入っていない時には、いっしょに夕の勤行もしました。母が先生に信心の話をしてくれ、何回も正命寺におつれしました。
 正命寺では、地方部に鼓笛隊がなかったので、しつじ様が「鼓笛をやりたい」という私の夢を叶えてくれて、バンドを作ってくださいました。
 山形を出るお別れ会の日には、私にないしょで練習してくれた青年部のお兄さん、お姉さん、そしてフルートの先生、サクソフォンをふく先生のご主人もいっしょに、私の大好きな曲、グリーンの「キセキ」をみんなでえんそうしました。そして、その日、先生はご授戒を受けることができました。私は、先生にずっと幸せでいてほしかったし、いっしょに「南無妙法蓮華経」を唱えたかったので、とてもうれしかったです。
 宮城から、大好きだった山形の学校の四年生の担任の先生を折伏したくて、広安寺のご住職様が書かれた『かわら版』と『妙教』を手紙といっしょに送りました。手紙には、「感想を聞かせてください」と書いたので、返事が来るのを楽しみに待っていました。


 地震から五日間、お寺でひなん生活

 返事を待ち望んでいた日の三月十一日、大地震が起こりました。その時、私は学校にいました。大きくゆれた地震の時、私は「絶対にご本尊様が守ってくれる!」と思い、必死で「みんなを守ってください。私を守ってください。お母さんたちを守ってください」と祈りました。
 地震がおさまってすぐ、母がむかえに来てくれました。家に帰ったら、家の中はめちゃくちゃでした。私がいつも使っていたお茶わんもお皿も、他のたくさんの食器も床に散乱していました。重たいタンスも倒れていました。もし、寝ている時だったら、私の頭はタンスの下敷きになり、死んでいたかもしれません。寝ている時でなくてよかった、と思いました。
 それから広安寺に行きました。かわらがくずれていました。本堂の仏具は転がって割れていました。その夜は、おじいちゃんやおばあちゃん達と、お寺の駐車場に車を停めて、車の中で眠りました。でも、大きな余震で何度も目がさめ、怖くて眠れませんでした。次の日からは、もう大変です。みんなで、お寺にお泊まりさせていただきましたが、ガスも電気も水道も通ってなかったので、石油ストーブでご飯を作って食べました。朝も昼も夜も、全ての食事が雑炊で、もうあきてしまい、「ああ、早くふつうのご飯が食べたいなぁ」と思い続けました。トイレは水が流れないので、私は外で用を足しました。
 ひなん生活三日目、私はだんだんストレスがたまり、イライラして泣きそうで、全く楽しくなくて、変な気持ちになりました。だから、お寺のかべをけってすすり泣きをしていました。ご住職様がギャグを言ってくださったり、志村けんの物まねが上手いお兄ちゃんと、そのお母さんも泊まりに来てくれることになって、いっしょに遊んでくれたので、ストレスが解消しました。
 母からも「紗瑛が元気ないと、みんなも元気なくなるんだよ」と言われ、できるだけ明るくしようとしました。それからは、みんなに仏教の絵本を読んであげたりしました。楽しいお兄ちゃんもいたし、夜は、詩吟の先生というおばあちゃんが、詩吟をひろうしてくれたり、ひなん生活なのに、笑ってばかりいました。地震から五日目の十五日、原発事故も起き、ご住職様から「山形に行きなさい」と言われて、泣く泣く山形に戻りました。


 つらい時も明るく笑って

 また、山形の学校に通うことになりました。担任の先生は、『かわら版』と『妙教』を送った、四年生の時の担任の先生です。先生に「かわら版と妙教、どうでしたか?」と聞くと、「とてもおもしろかったよ。ぼくは仏教が好きだからね」と言っていました。私は「もっと教えてあげて、信心をしてほしいなぁ」と思いました。
 フルートの先生は、私が宮城に行っている間に、赤ちゃんを産んでいました。私は、ご主人の勇太お兄ちゃんと赤ちゃんにご授戒を受けてほしい、とずっと願っていました。先生のお家では先生が、お寺ではしつじ様と母がたくさん話して、五月三日に勇太お兄ちゃんと琉斗君がご授戒を受けることができました。少年部のお友達や婦人部の人達が「おめでとう」と言って、たくさん集まってくれました。今は、フルートの先生一家といっしょに、ご登山できるように祈っています。
 山形で一カ月過ごしましたが、父の転勤で兵庫に行くことになりました。とても残念だったけど、みんなにはまた会えると思い、あまり泣きませんでした。泣き虫の私に、広安寺の三浦ご住職様から、「つらい時も泣かずに、笑って乗り越えなさい」と言われていたので、みんなには、「またね」という一言で別れました。地震を経験したので、私も強くなれたのかもしれません。
 勇太お兄ちゃんと琉斗君のご授戒の次の日、四日に宮城の荷物をトラックに積んで、思い出がいっぱいある広安寺にお別れを言いにいきました。五日に、山形の荷物を出して、いっぱい遊んで楽しかった正命寺に最後のあいさつをして、標語に出発しました。
 私はこの地震で、みんなと協力すること、助け合うこと、何でも明るく笑って乗り越えなくてはいけないことを学びました。
 関西では、地震のためコンクールに出られなくなってしまった宮城の鼓笛隊のお友達の分まで、しっかりがんばっていきます。
 山形の担任の先生には、これからも手紙を出して折伏していきたいと思います。



私も「己心の魔・懈怠」に負けないように、精進していきます。

タグ:体験談
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体験発表 「我が身で感じた『ニセ本尊』の恐ろしさ 総本山の荘厳な佇(たたず)まいに感動」 [体験談]


しばらくブログをお休み(放置?)してしまい、
ソネブロの皆様や読者様にご迷惑・ご心配をおかけして申し訳ありません。
実は先月、日蓮正宗の機関紙である『大白法』で
「東日本大震災から一年」の体験発表の特集があったのですが、
ご存知の通り卒業再試験があってなかなか転載することができませんでした。
これからはちょっとずつ、寄稿された体験発表をUpしようと思います。



 妙円寺支部S.Yさん (宮城地方部総会より)

 宮城地方部第七回総会の開催、おめでとうございます。
 私は昨年五月に妙円寺で歓誡(かんかい)を受けさせていただきました。これからは皆様と一緒に信心をさせていただきますので、よろしくお願いします。
 本日は今までの経過と、これからの信行における決意を申し述べさせていただきます。

 私は妙円寺妙円寺の法華講員になる以前、創価学会に在籍していました。学会の組織では、地区リーダー、また会館の警備に当たる牙城会、さらには衛星放送中継の運営に携わるサテライトグループを担当するなど、いわゆる活動家で、当時は学会の活動や教えに疑問を持たずに、池田大作の指導や幹部の言うことを信じていました。

  『ニセ本尊』受け地獄の日々始まる

 そして、平成六年に転勤先の静岡県で『ニセ本尊』を受けましたが、今思うと、そのことがきっかけとなり地獄の日々が始まりました。転職をくり返し、家族内では病気、経済問題等、様々なことが起きました。
 そのような中でも、毎日、池田大作とその夫人の健康や長寿を祈る半面、恐れ多いことに御法主日如上人猊下、御隠尊日顕上人猊下打倒を『ニセ本尊』に祈っていました。
 当時か気づきませんでしたが、
  「世皆(みな)正に背(そむ)き、人悉(ことごと)く悪に帰す(中略)是(ここ)をもって魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」(御書234頁)
と御指南されている『立正安国論』を拝読すると、仏法の道理からみれば平成二十年六月の岩手・宮城内陸地震などが起きても不思議はないと、今は実感しています。
 学会では特に選挙活動には熱心に取り組みますが、『ニセ本尊』に祈って幸せになっている人は、私の知る限り誰一人いません。かえって、組織を守るという仲間内だけの正義感で、人を恨(うら)んで祈っているので、人相がどんどん悪くなり、心が荒廃するのは当然だと思います。
 私自身はと言えば、昨年三月の東日本大震災後、学会から何の激励もなく聖教新聞からの情報しか知ることができず、気持ちがどんどん落ち込んでしまい、体調はますます悪くなっていきました。そんな私の姿を見て、母が「お寺に聞いてみる」と言って妙円寺にお電話しました。御住職・井上具道御尊師に種々ご相談し、御住職の「学会のやっていることは全て謗法です」というお言葉を伺って脱会を決意し、五月十日に学会本部に脱会届を提出しました。その二日後の十二日、晴れて家族四人、日蓮正宗の信徒・法華講員として再出発することができました。
 さらにその一カ月後には、夏期講習会に参加するため総本山へ登山させていただきましたが、大石寺の境内は学会で教えられてきた話とはまったく違い、荘厳で立派で、私は感動を覚えました。

  数々の謗法を懺悔 信心の全うを誓う

 また、この講習会に伴い、念願の御開扉を受け、戒壇の大御本尊様に私自身のこれまでの謗法の数々をお詫び申し上げると共に、「これからは法華講の一員として信心を全うします」等と、お誓い申し上げました。
 その後、七月一日には妹の淳子、さらには十月三十日には叔父の義春が御授戒を受け、妙円寺支部は昨年度の折伏誓願目標を達成できました。
 その間、叔母はるよが九月十日に亡くなりましたが、祖母の安らかな成仏の相に、私たち家族一同、「日蓮正宗の信心に戻って本当によかった」と、心の底から思いました。
 それら数々の出来事に感動をもって、十一月の支部総登山には両親と共に参加し、この時もまた御開扉でこれまでの謗法をお詫び申し上げ、さらに、「今後も御命題達成に向けて折伏に邁進します」等と、新たなS家の出発をお誓い申し上げました。
 その後、十一月の広布推進会で体験発表をさせていただき、私自身一つの区切りがつき新たな出発を始めようとしていた矢先、以前の職場より、「一月十日付にて雇用契約を解約する」との通知を受けました。通知を受けた後、それまでの経過を井上御尊師にお話したところ、温かくも厳しい激励をいただき、自分自身の信心の甘さを御本尊様に心よりお詫び申し上げました。
 私はこの日を境に心を入れ替え、退社日まで毎日、午前中はお寺で唱題行、午後からはハローワークに行って再就職先を探す日々でした。
 正直なところ心が折れそうなときもありましたが、その都度、井上御尊師より御指導をいただき、御本尊様に向かい唱題に努めた結果、再就職先が決まり、二月十三日より働き始めております。改めて唱題の功徳を実感しました。
 今現在、新しい仕事を一日も早く覚える努力をしていますが、それだけではなく、毎日朝夕の勤行・唱題を真剣に行い、法華講の一員として自覚と使命を持って行動をしております。
 また今度は、毎月の計画を立てて、御報恩御講への参詣をはじめとして、総本山へも積極的に登山し、信心が疎(おろそ)かにならないよう、がんばってまいります。
 最後になりますが、今まで縁してきた人たちはもちろんのこと、親戚や従兄弟たちを、唱題の功徳で得た功徳と勇気をもって折伏し、平成二十七年・三十三年の御命題達成に向けてがんばり抜くことを御本尊様にお誓い申し上げ、発表を終わらせていただきます。皆さん、共にがんばりましょう。

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体験発表 「困難な中でも願いは叶う」 [体験談]


 福島県南相馬市・正徳寺 T.Aさん

 私は現在、原発から三十キロ圏内ということで有名になった南相馬市の、原町区に主人と二人で住んでおります。
 昨年三月十一日の大震災、また十二日、十四日の原発事故から十七日の間に、南相馬市からの避難要請に伴い職場の同僚が避難をし、スーパーやガソリンスタンドも閉店しました。隣組も我が家と斜め向かいのパン屋の二軒だけとなり、まるでゴーストタウンにいるような恐怖さえ感じた毎日でした。
 私は、福祉施設で生活相談員の仕事をしております。利用者の方々を、横浜の老健施設が避難先として受け入れてくださることが決まり、私たちも十九日にようやく避難することができるようになりました。
 しかし、いざ避難しようとした折、当時のガソリン不足で、車で移動することができずにおりました。どうやって避難しようかと考えていたとき、御住職・光久信涌御尊師より、南相馬市からのガソリンを無料で配布するとの情報をいただき、満タンにしてようやく避難することがでるようになったのです。
 そのことをお寺に連絡すると、正徳寺に寄ってから避難をするように声をかけていただき、主人と二人で正徳寺に行きました。
 御住職様は待っていてくださり、一緒に御題目三唱させていただきました。「また必ず笑顔で正徳寺で逢いましょう」と約束してくださり、私も「はい」とお答えしました。
 私たちを送りだしてくださったときのことを忘れず、必ず地元に戻って正徳寺をお護りしようと固く心に誓いました。
 それから約四十日間の避難生活ののち地元に戻りましたが、当時の南相馬市は、仕事もなく、友達もいなく、食料は隣の相馬市まで買いに行かなければなりませんでした。そのうち、自分自身が体調を崩し、ストレスから胃潰瘍になり苦しい毎日を送りましたが、病気のおかげで真剣な勤行・唱題をすることができ、また真剣に折伏をさせていただきたいと願うようになり、唱題を重ねました。
 するとそれから二カ月後、突然、十年前に折伏をしていた友人から電話がありました。内容は、あなたに会いたいので家に行ってもいいかとのことでした。私はただちに、御本尊様が折伏しなさいとおっしゃっているのだと思いました。有り難くて御本尊様にお礼を申し上げ、その日から真剣に御題目を唱えながら、彼女に会えるのを楽しみに待ちました。
 電話でお話をしてから一週間後、約束通り彼女に会うことができましたが、会った瞬間、病気などのせいで昔の面影がなくなっていた彼女の姿に、驚きを隠すのが精いっぱいでした。彼女自身の病気のこと、子どものこと、ご主人のこと。時間の経つのも忘れて話を聞きました。私は話を傾聴しながら、御本尊様に縁させていただきたいと心から思い、真剣に信心の話をさせていただきました。
 その時、彼女は帰り際に「信心してもいいよ」と言ってくれましたが、一週間後に再びお会いすると、やっぱり信心はできないという返事で、残念な思いをいたしました。
 その結果をただちに御住職様にお話して御指導いただくと、「だいじょうぶ、ご縁のある方だからがんばりなさい」と励ましていていただきました。心を再び奮い立たせて、真心から彼女を救ってあげたいと御題目を唱えました。
 不思議なことに真剣に御題目を唱えているうち、私自身の胃の痛みがなくなっているのに気づきました。病院で見ていただいたら、ドクターより「Tさんの胃潰瘍が治っているよ」と言われ、私は嬉しくてすぐに御本尊様にお礼の御題目を唱えました。
 尚一層、彼女にも病気を治して欲しいとの思いは強くなり、もう一度会う約束をして、信心の話をすることができました。そのとき御住職様にお会いすることを約束でき、一週間後に彼女を正徳寺にお連れいたしました。
 御住職様から丁寧に宗教の話をしていただいた後、「一緒に信心しましょう」と言われ、彼女は素直に「はい」と答えたのです。そして八月の御報恩御講の日、彼女は御授戒を受けることができました。御授戒を受けている彼女の姿を目の当たりにしたときは、何ものにも代え難い喜びでした。
 私は今回の折伏を通し、真剣な御題目で願いは叶い、どんな環境が困難であろうと正しい仏法を根幹にして前進していくならば、必ず正しい結果が顕れるのだと再確認することができました。
 『法華初心成仏抄』の、
  「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」
との御金言を信じ、お寺に参詣して、御住職様と共に勤行・唱題をさせていただき、御法主日如上人猊下の御指南を根本として、御命題と毎年の支部の誓願目標達成へ向けて折伏をしてまいりますことをお約束いたします。

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体験発表 「喜び・思い出 尽きないこの一年 皆が成長 我が家の春近づく」 [体験談]

 福島県いわき市 妙法寺支部A.Tさん

 一年前の私は信心には消極的で、一年に一回大石寺に参詣するくらいでした。我が家の家族のことを話します。
 製造業を営む夫、とても明るく優しくいつでも元気、妙法寺支部の元青年部長で、現在は壮年部長です。長男は国立福島工業高等専門学校の五年生。根暗で何を考えているか判らない。私が意見しようものなら「それが何」と反論ばかり、ちょっと上目遣いで今時の子です。長女は中学生、剣道に勉強に、がんばり屋です。
 一昨年の秋のことです。息子が思うようにいかない進学問題から、ただでさえ自信がないのにますます暗い顔をして、私に荒々しい言葉でぶつかってくるようになりました。とうとう学校の三者面談をすっぽかし、親としてどうしてよいか判らなくなってしまいました。心配性な私は、眠れない、食べられないとすっかり落ち込んでしまいました。
 お寺に行って御題目を唱えよう。御題目で乗り越えよう。それからは、時間を見つけてはお寺に行っています。
 それまでお寺に来たことのなかった私に前御住職は、心配して話を聞いてくださいました。子どもは、思い通りにならないけど必ず守られるからと、激励してくださりました。
 御題目を唱えて思ったこと。それは、子どもで苦労して、親の恩を感じたことです。親もこうやって私を慈(いつく)しんでくれたのだということです。私は母に、母を泣かせたから自分も泣かされるんだねと話しました。
 その時から母との関係がしっくりいくようになりました。水戸にいる母は、創価学会員である叔母から『ニセ本尊』を持たされたが違和感があること。最近その叔母が乳がんになり、車の運転ができなくなって母のもとに来られなくなったことを話してくれました。私はすぐに、創価学会の間違いを話しました。そして母は昨年の一月に脱会し、歓誡を受け、無事に日蓮正宗の御本尊様を戴きました。

 そして、東日本大震災の三月十一日です。この日は息子の二十歳の誕生日でした。また、この日はもうひとつ大事な日でした。私たち夫婦の親代わりで、総代をされているH.Kさんを特別老人ホームに送っていく日でした。
 十二月の暮れまで三百人待ちと言われていました。百二歳になる実姉と同じこの施設に、しかも同じ三階になりますようにと祈っていたところ、三月九日に急に決まりました。念願通りで、喜んで病院から妙法寺に立ち寄って施設に入りました。その手続き中、地震に遭いました。
 原発事故が起きたため施設が閉鎖されました。夫は、せっかくだから、よく世話して楽しく過ごしてもらおうと、自ら隣に寝て面倒を見ました。また、昼間は息子が車いすのじいちゃん(Hさん)のトイレを介助してくれました。じいちゃんに頼りにされた息子は、だんだん気持ちが落ち着き、じいちゃんからいろいろと話を聞いていました。「二十歳の誕生日が大震災の日、『大悪起これば大善来たる』だ、がんばれ」と。そして四月七日に施設は再開となったので、じいちゃんを送っていきました。十日には、編入浪人をする息子を東京に送っていきました。
 大震災からやっと一カ月経ち少し落ち着いてきた十一日、我が町を震源とする震度六弱の大きな地震に遭いました。
 同じ町で土砂崩れで、一家四人が死亡。東京にいる夫の兄弟たちはバリバリの学会員なので、家が土砂崩れに巻き込まれたと思ったそうです。停電、雷。仏具山の麓(ふもと)に住む私たち親子三人は、その日の夜、御本尊様をお持(たも)ちして避難しました。町の中に井戸沢断層があり、一瞬にして近くの家々は傾き、公民館集会場に皆が集まっていました。そして、山が動いたため水源から供給が止まり、町中の水が出なくなりました。
 次の日に家に戻ってみると、家具が動き、猫がおびえ、三月十一日では無傷だった我が家も、本棚の本が落ち壁紙が破れ、地震が大きかったことが判りました。家に誰もいなくて幸いでした。
 御本尊様を御安置して勤行をしていると、またまた大きな余震が来ました。この余震で我が家と両隣の水源だけ水が戻ってきたのが不思議です。崖崩れが我が家にかからなかったのも不思議です。うちの裏山の仏具山は、今でも崖崩れで登れません。
 我が家は半分崖に鉄骨で支えて建っています。もう半分を支えていた所は田んぼを埋め立てた所です。調べに来た市の人たちが、「山がかなり動いているのに、よく基礎が何でもなかった」と言っていました。「御題目が上がってたから助かったんだ」と、御本尊様のすごさを体感しました。十月の地方紙に、我が家から一キロの所が震央と出ていました。
 夏の終わりに、大震災に伴い高速道路料金が無料なうち、母と妹と金沢に旅行に行きました。目的は妹の折伏です。そして九月に無事、妹に歓誡を受けさせました。春に親子で大石寺に行く目標ができました。
 十月には、友人をお寺に誘いました。一時間唱題した後で、友人は皆の話を聞き、入信することができました。その頃の妙法寺は、御住職・梅津正栄御尊師のもとに異体同心して、何としても誓願を達成しようと皆の顔が輝いていました。
 他にも、地震で片付けがなかなかできない古くからの信徒さん宅へ皆で掃除に行ったり、いろいろ思い出が尽きません。お陰さまで奇跡のような百四十人の折伏誓願目標を達成して、御会式を奉修することができました。
 私の入信は二十三歳です。大学時代、アルバイトで知り合った人から創価学会に誘われました。どこへ行っても仏法の話を聞くので、悩みだらけの私は、幸せになりたい一心で国分寺市の大宣寺で入信しました。もうかれこれ三十五年前です。
 結婚を機にいわき市に来て二十二年になります。水戸市にある実家は、スーパーマーケットを経営していました。五階建てのビルは国税に差し押さえられ、自己破産寸前でした。五年前、再開発で買い上げて貰え、任意整理で終わらせることができました。解体を見届けて、父は亡くなりました。
 夫の会社も十四年前に、半年の仕事が不渡りになり、一時はどうしてよいか悩みばかりでした。主人はお人好しで、騙されたり利用されたりいろいろありましたが、信心を持ってどんなときも弱音を吐かない人です。この体験は夫に発表してもらいたいので、とっておきます。
 震災前の私は、自宅で十五年にわたり染織教室を開き、時には自営の建設業の経理の手伝いをし、忙しい毎日を送っていました。
 震災で教室が中断してしまいましたが、去年一年を信心活動に精一杯費やすことができ、貴重な体験と人を救うことのすばらしさを味わいました。夫も、一世帯二人の折伏を成就し、その方は御本尊様を御下附戴き、他にも歓誡も四人とがんばりました。
 息子も家から離れていくらか成長してくれました。春には進学できる予定です。娘も三月に高校受験を迎えました。我が家に春が来るのも間近です。本年は昨年以上に折伏ができるよう御題目を唱え、慈悲の心で人に接するように心がけていきたいと思っています。

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体験発表 「大震災・原発事故を乗り越え 講中 心一つに目標達成」 [体験談]

 福島県いわき市 妙法寺支部O.Yさん

 昨年は東日本大震災があり、皆様方におかれましてもかつてないほど、たいへんな経験をされたことと思います。
 私の勤務する小名浜の化学工場が、震災によるダメージと福島第一原発の事故の影響で、操業を停止し、再開の見通しが立たなくなってしまったのです。
 私のいる会社はドイツ系の企業です。原子力発電所を全廃すると発表したお国柄だけあって、放射能に対してはとてもシビアなのです。原発事故後、会社として従業員と家族の避難用に、東京までのバスを出しました。
 それからしばらく、私は家族と共に静岡県富士宮市の親戚の家に身を寄せていました。

  あの日から生活が一変 家族残し単身赴任

 震災から二週間を過ぎた頃、会社から厚木事業所への出勤要請があり、家族四人で神奈川県厚木市に引っ越しました。
 四月に入り、春休みも終わりに近づき、子どもたちを転校させなければなりません。小学校に入学する下の子は「こっちでもいいよ」と言っていたのですが、中学三年生になる子は転校したくないと言い、そのストレスからか、兄弟喧嘩が毎日絶えませんでした。小名浜工場の復旧の見込みはなく、時間だけが過ぎていきました。
 そして、市の担当者から、「明日までに転校手続きしないと、教科書なども手配ができなくなります」と言われてしまい、いよいよ決断を迫られました。上司の家では、既に転校手続きは済ませていました。
 その日、会社で仕事をしていて夕方五時を回る頃、「小名浜工場再開」との連絡が入ってきました。
 「よし、これでいわき市に戻れるかもしれない。転校しなくても済むぞ」。家に帰り家族に報告すると、みんな喜びました。その週末、家族でいわき市に戻ったのです。引っ越しが一段落して、久しぶりの我が家で四人そろって食事を摂ったとき、当たり前の幸せに気付かされたことを思い出します。そして、休む間もなく私は一人厚木に戻り、そこから単身赴任生活が始まりました。
 毎日、小名浜から送られてくる製品の放射能測定などの対応に追われ、帰りが午前零時を回ることもしばしばありました。いつまでこんな生活を続けるのか、何で地震が、原発が、と嘆いた日もありましたが、御題目を唱えていれば必ずいい方向に行くと信じ、我が家の御本尊様を思い浮かべ御題目を唱えていました。
 私が住んでいたアパートは厚木市の依智という所が近く、そこは何と、大聖人様が明星天子に会われた相模の国依智の本間邸がある場所だったのです。ちなみに、私が通っていたスーパーマーケットの名称も「スーパーえち」でした。
 時が過ぎ、秋風が吹く頃、仕事も順調に進み、気持ちに余裕が出てきました。年内に小名浜に戻るのは、まず無理だと言われていたのですが、突然、すべての仕事の申し送りが終わったら小名浜に帰れるという朗報が入ったのです。急展開し、十月に自宅に戻ることができました。会社からは、顧客への信頼向上に貢献したとのことで、社長賞をいただきました。
 
  新住職と共に力強く講中動く
 
 いわき市に戻って、早速お寺の活動に出ると、以前の妙法寺と空気が変わっていました。
 新しい御住職・梅津正栄御尊師のもと、みんなの目が輝き、力強さと勢いを感じたのです。まるで私は浦島太郎状態でした。
 その遅れを取り戻そうと、私も唱題に励みました。しかし、震災で停滞していた分、支部誓願目標の百四十名は、厳しい数字でした。毎日五時間の唱題をされている梅津御住職のかすれた声を聞くと、何とか私もお役に立ちたいと思い、「折伏させてください」と御題目を唱えました。
 十一月に入り、高校時代、創価学会で活動していた友人に電話をしてみました。一時間ほど話をして、何とか喫茶店で会う約束を取りました。
 学会員当時に高等部長をしていた妙法寺支部青年部長と三人で待ち合わせ、久しぶりの再会をしたのです。あまり時間がないとの友人に、なかなか本題を切り出せず、私は焦りを感じでいました。と、そのとき諸天が動いたのです。
 ウェイトレスが、「すみません。これからコンサートが始まるのでうるさくなるのですが、よろしいでしょうか?」と聞きにきました。それでは場所を変えようということになり、お寺に行くことになったのです。お寺ではみんなが唱題をしていて、温かく迎えてくれました。ここまでくれば話は早く、あっという間に折伏成就できました。
 そして十一月二十日、折伏誓願目標百四十名を達成することができました。
 これは間違いなく全員のベクトルが折伏達成という目標に合い、異体同心で唱題に励んだ賜です。十二月十八日には折伏達成の記念登山を行い、御法主日如上人猊下に御目通りができました。
 御目通りで、御法主日如上人猊下と目が合ったと思った瞬間、体に電撃が走りました。
 『四条金吾殿女房御返事』に、
 「三十三のやく(厄)は転じて三十三のさいはい(幸)とならせ給ふべし。七難即滅七福生」とは是なり」
と仰せの通り、昨年はかつてない大震災・原発事故という難を乗り越え、今までにない貴重な経験をさせていただきました。
 また、もう一つ学んだことがあります。当たり前のことですが、挨拶の大切さです。年齢や役職が下の者から挨拶すべきとどうしても思いがちですが、挨拶は先手必勝です。家族はどちらが先なんて決まっていません。家族のように気持ちのいい挨拶ができれば、折伏は五十パーセントは決まったようなものです。
 今年も、妙法寺支部は五月までに八十人という折伏目標があります。先手必勝の挨拶と、異体同心で唱題に励み、目標を達成していきたいと思います。

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