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熱原法難の地を尋ねて [龍泉寺]

 去る九月十九日、日蓮正宗総本山・大石寺にて奉修された第二十六世日寛上人御正当会(寛師会)の後、静岡県富士市の東名高速富士インターチェンジ近くに収穫時期の稲田が広がる、かつて身分の低い農民たちが正法のために命を懸けた所縁(ゆかり)ある地を尋ねた。
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           熱原山龍泉寺に隣接する田圃の風景



 熱原法難は、駿河国富士郡下方庄熱原(静岡県富士市)で弘安二(一二七九)年秋に起きた法難。この法難は単なる宗史上の一法難ではなく、宗祖・日蓮大聖人様が出世の本懐、本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされるという、重大な意義を持つ。さらには、当時の社会の上で身分の低かった農民たちが、命をかけて信仰を貫いた「法華講」の原点であり、以後も数々の法難が惹起するのであった。

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                    境内に建立された記念碑

 もともと滝泉寺(この「滝泉寺」は天台宗の寺とし、「龍泉寺」は現在の日蓮正宗寺院に区別する)は奈良時代の法照寺ののち富士郡下方庄の荘園を管理する寺院として、平安後期よりあったと伝えられている。その寺院に由来は、法照寺が炎上したために火禦(ひぎょ・火を防ぐの意か)の意味で「滝泉寺」と水に因んだ名称と言われている。

 付近には実相寺・四十九院など広大で潤井川の河畔の肥沃(ひよく)な荘園を有する寺院がある。

 これらの寺院には幕府高官を退いた官僧の、現在で言う天下りの院主がおり、仏道を行ずる寺院というより、本来の寺院の在り方から程遠く、綱紀も乱れ、堂宇も荒廃していた寺院であった。

 荘園には大勢の「在家人」という農奴がおり、田畑を耕作し、年貢を納めていた。

 日蓮大聖人様に常随給仕されていた第二祖日興上人様は、大聖人様が身延に入山あそばされた文永十一(一二七四)年初秋より、幼少より宿縁深い駿河・富士地方へ折伏に歩き、院主・院主代によって荒廃した寺院の修行僧を破折して改宗し、弟子になっていった。実相寺よりは筑前房・豊前房、四十九院よりは日持・日位、滝泉寺よりは日秀・日弁・日禅等が大聖人様の教えを信じて修行するようになり、寺域内の農民たちや下男下女、付近の住民までが大勢入信し、日に日に「南無妙法蓮華経」の題目の声が盛んになっていくのであった。

 日興上人様の「本尊分与張」には何人もの農民や住民に御本尊様が御下付された記録が残っている。
 
 その中、熱原の農民、神四郎・弥五郎・弥六郎の三名は弘安元年に入信し、滝泉寺で日秀・日弁・日禅等の指導を受けて熱心に信心修行し、大折伏を行じられた。

 しかし、鎌倉幕府の中心、付近を領有する北条一門は念仏宗であり、幕府を退官し、滝泉寺院主代となった行智という破戒僧らは、このように盛んになっていく大聖人様の教えを信心する集まり「法華講」を快く思わず、荘園を管理する鎌倉幕府の代官やそれに連なる破戒僧や謗法の寺家檀家衆らは弾圧を始めたのである。

 まず院主・院主代らは寺院の修行僧に法華経読誦を止めて阿弥陀経の信仰にもどらなければ、寺院より追放するという触れを出した。

 しかし、筑前房・豊前房等は日興上人様の「実相寺衆徒状」にあるよう敢然と立ち向かい、他四十九院・滝泉寺でも僧侶は信心強盛に寺院内に止まり折伏の手を止めなかった。法華講信徒農民も寺内で頑張る僧侶を外護(げご)し、ますます強盛に信心していくのであった。

 このように緊迫した状況のもと、弘安二(一二七九)年四月になると、三日市浅間神社の祭礼の雑踏のなか四郎と名乗る法華信者が何者かに刃傷の害を被り、同じく八月には、法華信者弥四郎が首を斬られ殺害されるという、法華講員に対する弾圧の事件が惹起したのである。

 そして九月二十一日、この日は下野房日秀の田の稲刈りの日で、熱原法華講員衆たちが集まって稲刈りの御奉公をしていた。かねてより法華講弾圧の機会を窺(うかが)っていた院主代行智は、この時ばかり太田親昌・長崎時綱等の武士を催して、院主代分の稲を法華信者が奪うとの理由を付け熱原法華講衆二十名を捕縛し、鎌倉幕府へ送られてしまった。

 そこには神四郎・弥五郎・弥六郎の長兄である弥藤次入道の弟たちを罪に陥れる訴状まであった。それは行智の甘言籠絡による狂気の沙汰であり、妻子眷属魔の現れであった。また大進房・三位房らも天魔に魅入られたものか師敵対の大謗法の者となり、太田親昌・長崎時綱等に与(くみ)して法華講衆捕縛に加わっていたのであった。この大謗法者たちは捕縛騒動の中で落馬し、数日後、不可解な最期を遂げるという現証があり、太田親昌・長崎時綱も法華誹謗の現罰がたちどころに現れたのである。

 これらの子細は日興上人様が書状で直ちに身延の大聖人様へ報告され、それに対して大聖人様より「伯耆殿並諸人御中」「聖人御難事」「伯耆殿御返事」「滝泉寺申状」「聖人等御返事」等と次々に、捕えられた農民たちを思いやられ、事細かに大慈悲あふれる御指南をなされた。

 この御指南を受け、日興上人様を中心に日秀・日弁らと神四郎・弥五郎・弥六郎の三烈士たち熱原の農民たちは、さらに不退転の強盛な信心を貫いていった。

 鎌倉に送られた二十名の農民たちを取り調べたのは、大聖人様を佐渡へ流し、長年迫害をしていた平左衛門尉頼綱であった。平左衛門は十月十五日、農民一同に事件の事は少しも触れず「汝等速やかに法華経の題目を捨てて、念仏を称えるとの起請文を書け、さすれば罪を許す、さなくしては重罪に処す(速やかに法華経の読誦を停止し、一向に阿弥陀経を読み、念仏を申すべきの由、起請文を書かば、安堵すべきの旨)」と嚇(おどか)したのであった。

 しかし、入信してわずか一年足らずの一介の農民たちは、『如説修行抄』そのままを身をもって実践したのだった。「縦ひ頸をばをばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば」必ず成仏できる事を確信し、幕府での威(おど)しに一切怯(ひる)まなかったのである。
 
 この様子に激怒した平左衛門は、子息・飯沼判官資宗に命じて、蟇目矢を散々に浴びせて威嚇したが、三烈士たちの唱題の声はますます高まり、ついに業を煮やした平左衛門は農民たちの中心者であった神四郎・弥五郎・弥六郎の首をはねたのだった。

 「彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云。偏に只事に非ず。定めて平金吾の身に十羅刹の入り易はりて法華経の行者を試みたまふか」と『聖人等御返事』で大聖人様仰せのように、三烈士の天晴な不退転の信心を称嘆され、法華講員一人ひとりの「一心欲見仏 不自借身命」の実践こそが大聖人様御化導の目的である事は言うまでもありません。

 弾圧した平頼綱等父子は、法難の十四年後の永仁元(一二九三)年四月に、謀叛の罪で誅殺された。法華誹謗の現罰以外なにものでもないだろう。

 法難の逐一の報告を受けられていた大聖人様は『聖人御難事』に密示された如く、弘安二年十月十二日法難の決定的段階を迎えたとき、一閻浮提総与、本門戒壇の大御本尊様を御図顕あそばされたのである。すなわち、御本仏大聖人様の大慈悲が、当時社会の最下層である農奴の間まで流れ及んだ状況に、本懐成就の時を感じられたのである。
 
 その脇書には「右現当二世の為造立件の如し、本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆敬白」と示され、熱原法難を不退の信心で闘っている農民信者をもって「弥四郎国重」と称せられ、末法万年にわたって三大秘法を信行する衆生を「法華講衆」と称せられたのである。

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二階の本堂の窓から熱原法難が起きたとされる田圃を眺望しながら、
現在の龍泉寺御住職・永山認道様より熱原法難についてお話を伺った。

 熱原法難の後、滝泉寺は荘園管理の機能を果たせないとして廃寺となり、荘園は富士宮浅間神社本宮他、三日市米之宮の浅間神社の三社に分けられ、その後は「滝泉寺領」として地名のみが浅間神社の記録にその名を留めるだけだった。

 熱原の法華講衆も滝泉寺廃寺後は上野殿はじめ窪尼・高橋殿などの所へと散り散りになり、記録もなく場所を特定する事がなかなかできなかった。江戸時代に熱原法難の聖地として供養塔や石碑が建ったのだが、潤井川の氾濫などで流出し、現在ある場所は滝泉寺とは関係のない所にある。

 現在ここ龍泉寺の地は、江戸時代、天保年間の古地図に、朱印地(国有地)とあり、墓地として使用されていた。地元の老人は「昔から龍泉寺塚といって、飼い猫や愛犬が死んだら葬っていた地」と言っていた所であった。
 日蓮正宗重役妙蓮寺御住職・常健院日勇御能化様と龍泉寺支部講員で郷土史家・山口稔氏(故人)が実地調査をかさね、第六十六世日達上人様も度々この地に立ち、決定され、市有地を払い下げて得た境内地である。

 日達上人様は龍泉寺発願のお言葉に、「龍泉寺は、その後、熱原法難事件後跡絶えてしまって、さっぱりその所もはっきり分からなかったのでございますが、今回、その地を発見致しまして、今本山に於いて、龍泉寺を造っている最中でございます。これが出来ますれば、又、あの熱原の法難の遺跡の寺として皆様に参詣して頂きたいと思います」と仰せられ、慶讃文にも「夫(そ)れこの地は弘安の古、宗祖大聖人御在世の砌、日興上人の采配によって日弁・日秀等の盛に毒鼓を叩きたる熱原龍泉寺の跡にして(中略)日達仏恩報謝と並びに三烈士の顕彰のために年来の宿願たる龍泉寺の復興建立を為し、本日茲に入仏落慶の法莚(ほうえん)を敷く」と仰せのように、法華講発祥・三烈士を顕彰し、広宣流布へ法華講二陣三陣と続き大願成就を願われた寺院であります。

 熱原法難七百年の御報恩の為に「熱原法難称嘆法要」が昭和四十九年に奉修され、その記念碑が建立された。記念碑には日達上人様の御句が刻まれています。
  「法の下種 秋の実りや 来世まで」妙観
 と三烈士たち熱原の農民たちが稲刈りに集う心を謳われ、今まさに法華講による大折伏が広宣流布に向かって進む姿こそ日達上人様の御句の意義と存じます。


 熱原法難に関する動画。


 本当は、もう少し「熱原法難」について書きたかったのですが、もうこんな時間なので…。
 機会があれば多角的な視点で執筆しようと思います。
 ではでは。

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